三成抄 第二章

三成抄 第二章

佐和山城

place 彦根市 access_time 2021年3月14日更新

「三成に過ぎたるものふたつあり 嶋の左近と佐和山の城」詠み人知らずのこの歌は江戸時代に詠まれた俗謡です。この歌もまた三成の佐和山城の威容を伝えるものだと言っていいのかもしれません。(一説には、佐和山の城ではなく、松原内湖に架けられた百間橋だと書いている書物もありますが)
JR彦根駅の改札を抜けると、窓から真正面に見える山が佐和山です。車だと、彦根インターを降りてきて、国道8号線を外町の交差点で直進し、JRの跨線橋を渡る時、右手に見えているのが佐和山です。

佐和山城彦根市街側

佐和山城彦根市街側

山の標高は約233m。石田三成の居城があった時は、今の標高よりも山頂は10数メートル高かったと伝わります。その山頂に一丈五尺(約4.5m)の石垣が積まれ、その上に五重の天守が建っていたというのですから、それは見事なお城だったのだろうと推測します。

佐和山主曲輪=山頂

佐和山主曲輪=山頂

麓から見上げると、天守の鯱は霞んでしまい見えなかったと『古城御山往昔咄聞集書』(彦根市立図書館所蔵)は書いています。この『古城御山往昔咄聞集書』(以後、『聞集書』と記す)は、第1章にも書きました佐和山城の旧記の底本となったもので、井伊家八代藩主直惟が、彦根城の普請奉行に命じて、佐和山城とその周辺の集落、つまり、佐和山城下町について、聞取り調査をさせたものです。巻末の年号を見ると「享保十二年(1727)」と書かれています。関ヶ原合戦が西暦1600年に起きていますので、120年以上も経って、この『聞集書』は編集されたことになります。「そういえばおじいさんがこんなことを言っていたなぁ」というような思い出話の聞き集めですから、すべてが正確な情報かと問われると、いくつかの疑問も湧いてくるのですが、石田三成と彼が治めた城下町については、この『聞集書』が一番の史料であることに間違いありません。他に、佐和山城の史料としては井伊家伝来の3枚の佐和山絵図(彦根城博物館所蔵)があります。

佐和山古城図(彦根城博物館蔵)

佐和山古城図(彦根城博物館蔵)

佐和山城と周辺の様子を色分けして描いたこの絵図は、城の曲輪の配置や城下町の様子を知るための大きな手がかりとなります。現在、佐和山城を散策すると、『聞集書』と3枚の絵図に描かれた城の遺構のほとんどを現地で確認することができるのです。今に遺る佐和山城の遺構については、後の頁を割くとして、三成が豊臣秀吉から佐和山城の城主を命じられたのはいつのことだったのでしょうか。詳しくは、『新修彦根市史第1巻通史編古代・中世』658~670頁の伊藤真昭氏の文章に依りますが、天正18年(1590年)、小田原の陣で関東の北条氏を滅ぼした秀吉は天下統一を果たし、翌天正19年の領地分配で、自らの直轄地であった佐和山城の城代に三成を命じました。そして、4年後の文禄4年(1595年)7月、関白豊臣秀次が高野山で自害した後、近江国の伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡を領地として三成に与え、城代から城主へと昇格させたのです。坂田郡で生まれた三成にとって、坂田を含む湖北四郡を領地として与えられ、信長の時代から東山道と北国街道、そして琵琶湖の舟運をも掌握できる佐和山城の城主に命じられたことは、故郷に大きな錦を飾った心地だったのではと思います。三成の家臣・須藤通光の書状によると、佐和山城と城下町を整備(惣構)するために三成は夫役御免を秀吉から認められている長浜町の町衆までも動員しています。また、秀吉が亡くなる慶長3年の3月、秀吉は三成を佐和山から筑前(現在の福岡県北部)に転封しようとしました。これは大陸進出を図る秀吉にとっては大きな布石であり、三成にとっても栄転だったのですが、三成はこれを断ります。「今、私が佐和山を離れたら、誰が佐和山を守るのか」佐和山城は、関東の徳川家康に対する最前線であり、尚且つ、秀吉を家康から守るための最終砦として三成は位置づけていたのです。さて、城主となった三成は、領内の村に宛て掟書を発給します。三成の書く掟書は、ひらがなを多用し、村人たちにも読めるように努めていました。

特筆すべきは、三成への直訴を許していたこと。これは江戸時代の『目安箱』に通じるものです。三成が発給した掟書は、彦根・米原・長浜の3市で33通も現存しており、これは他の同時代の領主たちの掟書と比べても多いと評価されています。関ヶ原合戦後、三成と敵対した井伊家が佐和山城下を治めることになった不安を村人たちは三成の掟書を楯にすることで払拭したのかもしれません。

龍潭寺三成銅像

龍潭寺三成銅像

では、ここからは今に遺る佐和山城の遺構を見ていきましょう。登城は龍潭寺境内の裏山から始まるハイキングコースで登っていきます。「龍潭寺道」と呼ばれるこの道は、三成の時代には「かもう坂通往還」と呼ばれ、佐和山の東西を結ぶ重要な通行路でした。

かもう坂往環切通し

かもう坂往環切通し

切通になっている峠の鞍部を右に進路を取り登って行くと「西の丸下段曲輪」、古図には「塩櫓」と書かれた曲輪に到着します。天守のある主曲輪(山頂)から琵琶湖に向かって伸びた長い尾根を3段に削平して「西の丸」と総称し、塩櫓(塩の貯蔵)、塩硝櫓(火薬の貯蔵)という名称をつけ、それぞれの役割を持たせました。

塩硝櫓跡入口

塩硝櫓跡入口

関ヶ原合戦後、東軍が佐和山城に攻め込んで来た時、留守居の家臣・福島次郎作が塩硝櫓に火をかけ、敵の足止めをしたと『聞集書』に書かれています。しかし、この塩硝櫓の火はすぐに天守に燃え移り、籠城していた城中の女の人たちが逃げ場を失い、天守北東の深い谷に身を投じました。死にきれなかった女の人たちの喚く苦しむ声で山は震えたと『聞集書』は記します。山頂から北東に伸びる尾根には二の丸、三の丸と呼ばれる曲輪があります。有事の際、二の丸には三成の兄正澄が守備し、三の丸には嶋左近が守備することになっていました。山頂から南に伸びる尾根の突端には、土塁を築き、三段に削平された法華丸と呼ばれる曲輪があります。佐和山城が浅井氏の配下だった時代(当時の佐和山城主は浅井の重臣・磯野員昌)、ここに法華宗の祈祷所があったので、法華丸と名付けられたのだとか。現在、彦根市内にある妙源寺(河原3丁目)と蓮成寺(栄町1丁目)の2つのお寺は、この法華丸を移したお寺だと伝わります。

妙源寺

妙源寺

蓮成寺

蓮成寺

さて、佐和山城の大手は鳥居本町側を向いていました。今も土塁と内堀が遺り、直角に曲がった田んぼのあぜ道は、当時の大手道をそのまま遺していると伝わります。

佐和山大手道

佐和山大手道

佐和山城大手道内堀

佐和山城大手道内堀

大手道から登ると最初に辿りつくのは太鼓丸と呼ばれる曲輪で、ここには千畳敷と呼ばれる城内一大きな曲輪があります。関ヶ原合戦後、東軍に寝返った小早川秀秋が佐和山城攻めの先鋒として最初に攻め込んだのも太鼓丸でした。

太鼓丸

太鼓丸

この時、太鼓丸は大坂城から援軍に来ていた長谷川守知が守備していたのですが、彼は秀秋に内通し、太鼓丸の門を開けてしまいます。西の丸からは井伊直政、田中吉政隊が、太鼓丸からは小早川秀秋隊が攻め上がり、退路を断たれた山頂の天守では、城を枕に三成の父正継、兄正澄、正澄の嫡男朝成が自害して果てました。この時の様子を佐和山城攻めに参加し、落城後の城の接収にも立ち会った石川康通、彦坂元正が連署で書いた書状があります。「本丸へ押しかけ、石田杢父子(三成の兄正澄・朝成父子)、治部少輔舅父子(三成の舅宇多頼忠・頼重父子)、同治部親(三成の父正継)、(三成の)妻子ひとりも残さず斬り殺し、天守に火をかけ、悉く焼き払い落城いたしました」と。『聞集書』や関ヶ原合戦について書いた古記録では、佐和山落城の悲惨さを強調して書き残しています。しかし、今、何も残されていない佐和山城跡に立ってみると、「兵どもの夢の跡」の如く、敗北した者の潔さだけが清々しいほどに感じられるのです。

本丸

本丸

関ヶ原合戦後、井伊直政はこの佐和山城を家康から拝領します。そして、関ヶ原から2年後、慶長7年2月に彼は、佐和山城で亡くなります。関ヶ原で島津に撃たれた鉄砲傷がもとで。その後、井伊家は新城を彦根山に普請し、名前を「佐和山城」とします。

佐和山から見た彦根城

佐和山から見た彦根城

そして、井伊家の去った、かつて三成の城があった佐和山は、古澤山(古い佐和山の意味)と呼ばれるようになるのです。

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