三成抄 第三章

三成抄 第三章

再起

place 彦根市 access_time 2021年3月14日更新

それは関ヶ原合戦が起きる2年前のことでした。慶長3(1598)年8月16日、豊臣秀吉が62歳でこの世を去りました。その日を境に盤石なはずだった豊臣政権は音を立てて崩れ始めるのです。五大老のひとり、徳川家康が次の天下を我がものにしようと、豊臣公儀の決め事を次々と翻していったのです。そしてそのような中起きたのが『三成襲撃事件』。慶長4(1599)年閏3月のこと、文治派の三成と常に対立していた武断派の加藤清正、福島正則、浅野幸長、細川忠興、黒田長政、池田輝政、加藤嘉明ら7人の武将が三成を討つべく挙兵したのです。この事件は、家康が仲裁に入ることで未遂に終ったのですが、次に起きる関ヶ原合戦への大きな伏線となりました。秀吉が亡くなった直後から、豊臣恩顧の武将たちの不協和音は聞こえていたのです。この事件によって、家康から蟄居を勧告された三成は、家督を長男重家に譲り、奉行職も辞して佐和山城へと帰ってきます。慶長4年閏3月10日、秀吉が亡くなってわずか半年余で、三成は中央政権から失脚することになったのです。
佐和山城に帰ってきた三成は、母の菩提を弔うために瑞岳寺という寺を城下の一角に建立します。今となっては佐和山のどこに建てられたのかを知る術もありませんが、本町2丁目の瑞雲山江国寺は佐和山落城と共に消えた瑞岳寺縁であると伝わり、また宗安寺(本町2丁目)に安置されている通称「石田地蔵」と「千体仏」は三成が瑞岳寺に納めた仏像だと伝わります。

江国寺

江国寺

宗安寺赤門

宗安寺赤門

千体仏

千体仏

石田地蔵

石田地蔵

佐和山落城時、戦火の中を運び出されたこの二仏は、今、井伊家ゆかりの宗安寺で静かな時を刻んでいます。
さて、隠居の身となった三成は、同じ奉行だった増田長盛、長束正家、そして盟友、大谷吉継、直江兼続、真田昌幸らに書状を何通も何通も送ります。すべては豊臣の天下を秀吉の遺児・秀頼に継がすべく、その手立てを模索していたのです。そして導き出した答えは「徳川家康を討つ」。
慶長5(1600)年9月15日、日本のちょうど真ん中に位置する関ヶ原一帯(岐阜県不破郡関ヶ原町)で、後に「天下分け目」と呼ばれる一大決戦が繰り広げられました。最近の研究では関ヶ原合戦についていくつかの新説が発表されましたが、最初に大垣城(岐阜県大垣市)に籠城した三成ら西軍は、大垣の地で家康を迎え討ち、大垣城から佐和山城までを決して東軍に突破させてはならない防衛ゾーンとして戦いに挑んだことに間違いはありません。しかし、いくつもの想定外が積み重なり、三成の思惑は外れ、わずか半日で勝敗が決してしまいます。三成は3人の家臣と共に関ヶ原を後にし、母の生まれ故郷である木之本の古橋村(長浜市木之本町古橋)へ向かいます。笹尾山の三成陣地から伊吹山を越え、いくつかの谷を渡り、ようやくたどり着いた古橋村。法華寺の三珠院住職・善説は三成の幼いころの読み書きの師でもあったことから、まずはこの善説に助けを求めたと伝わります。しかし、東軍の追っ手も古橋村へと迫り、三成は旧知の与次郎の手引きで、三頭山中腹にある岩穴に匿われることになります。三成を匿ったと伝わる『大蛇の岩窟』は、畳2帖分の広さがあり、三成の身長(遺骨から割り出した154㎝)でも十分に立てるだけの天井高があります。

オトチの岩窟

オトチの岩窟

やがて、逃げ場を失った三成は、与次郎に自分を東軍に差し出すように諭します。司馬遼太郎の小説『関ヶ原』では、この時のふたりのやりとりを次のような会話で描いています。「お遁げあそばせ」と言う与次郎に対し、三成は「その方の義を義で返したい。田兵(田中吉政)の兵のもとにゆき、わしの所在を告げよ」と返し、自ら囚われの身となったのです。 なぜ、三成は自害しなかったのか、なぜ縄目の恥を甘んじて受けたのか、その答えを『明良洪範』(江戸中期に書かれた逸話集)の中に見つけることができました。処刑される前、喉が渇いた三成は警固の者に「白湯」を飲ませてほしいと頼みますが、差し出されたのは白湯ではなく柿(干柿とする説もあり)でした。「柿は胆の毒」と言って食べなかった三成に周囲からはせせら笑う声と「これから首を刎ねられる者が腹をこわす心配なぞして」と言う声が聞こえてきます。その声に対して「大義を思う者が首を刎ねられる間際まで命を惜しむのは本意を達せんと思う故なり」と三成は言いきりました。三成の再起は叶うことなく、夢は、ここで潰えたのでした。しかし、関ヶ原合戦から処刑されるまでの16日間、決して諦めることなく、生きることで夢を繫いだ三成の生き様は、今を生きる私たちに多くのことを語ってくれるように思うのです。
さて、三条大橋の袂に晒された三成の首は、瑞岳寺を開基した春屋宗園の嘆願により、胴体と共に京都・大徳寺の三玄院に埋葬されました。この時、三成の首を貰い請けに行ったのが沢庵でした。沢庵は瑞岳寺建立時より佐和山城が落城するまでの間を佐和山城下で過ごしています。そして、落城のさなか、瑞岳寺から石田地蔵と千体仏を運び出したのも沢庵でした。後の紫衣事件では、江戸幕府と対立した沢庵ですが、修行中の身を佐和山城で三成と共に過ごした日々が、彼の人となりを形成したのかもしれません。

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