三成抄 第四章

三成抄 第四章

遺歌

place 彦根市 access_time 2021年3月14日更新

三成が詠んだと言われている和歌が3首あります。そのうち、確かに三成が詠んだ和歌だとわかっているのは、この歌です。

『春ごとの頃しも絶えぬ山桜 蓬が島の心地社すれ』

天正15年(1587)3月18日、豊臣秀吉は、大友宗麟の要請を受け、九州全域を席巻する島津家を制圧するために九州へ出陣します。その途次に立ち寄り参詣した厳島社で歌会を開き、秀吉の供回りの者たちが一首ずつ和歌を詠んでいるのですが、その時、三成が詠んだのがこの歌です。後の写本に「厳島社奉納和歌」と題された36首の中には、三成の他に大谷吉継、浅野長政、増田長盛、長束正家らの歌も見られます。秀吉の歌を筆頭に36首は、これから九州へ戦に赴くといった雰囲気ではなく、厳島(宮島)の風光明媚な景色と時節の満開の桜を愛でた歌ばかりであることが、秀吉の天下統一は約束されたものであることを醸しています。三成が詠んだ歌も、直訳すると「この満開の桜を見ていると不老不死の理想郷・蓬莱山にでも来ているようだ」となります。この時三成27歳。天正13年、秀吉の関白叙任に伴い、「従五位下治部少輔」の官位職名を与えられ、諸大夫12人のうちのひとりにも選ばれ、若くして秀吉家臣団の上位に名を連ねました。秀吉の天下取りが破竹の勢いで進んでいく中、若き三成の前途洋々たる気持ちを読み取ることができる歌です。

『筑摩江や 芦間にともすかがり火と ともに消えゆくわが身なりけり』

さて、2首目のこの歌は、多くの三成関連書籍には、三成の辞世だと紹介されている歌です。この歌の出所を辿ってみると、意外や天台宗の古刹松尾寺(米原市上丹生)に行き当たりました。

松尾寺の創建は古く、奈良時代に役行者が開山したと伝わります。ご本尊の十一面観音菩薩像は『飛行観音』と呼ばれ、太平洋戦争中には多くの祈願があり、今も飛行機に乗る人たちが旅や仕事の無事をお祈りに来るのだそうです。その松尾寺に三成との関係を示す1通の書状が残されています。三成の父・正継の書状がそれです。息子三成に読ませるために松尾寺から書物60巻を借りたが、忙しくて読むこともかなわないのでお返ししますというお詫びの書状です。

書状

書状

松尾寺のある一帯は、文禄4年7月に三成が佐和山城主になったとき、秀吉から領地として与えられた地です。秀吉の傍近くに仕える三成に代わって佐和山城下を治めていた父・正継ならではの行き届いた心配りの書状だと言えます。その松尾寺の口伝に、三成の辞世の歌として、この『筑摩江や』の歌が伝えられていました。しかも、この歌には、三成の重臣・島左近の返歌もあったのです。「琵琶湖の筑摩江(現在の米原市入江辺り)に生える芦間に灯された篝火が朝になれば消えるように私の命も消えていく」と詠った三成に対し、『名は野原 身はくちなわの住居かな』と、左近は返歌しました。上の五七五で歌は切れていますが、多分その後に『ともに消えゆくわが身なりけり』と続けたはずです。「死して名を残さず、この身は朽ち果て口縄(蛇)の住処となってもかまわない、私はあなたと共に消えゆく身なのですから」 三成の覚悟に左近も覚悟を歌で返したのです。そして、島左近は、関ヶ原で三成の陣地の左前を守備し、黒田長政隊と死闘をくりひろげ、結果討ち死しました。

関ケ原決戦の地

関ケ原決戦の地

しかし、その亡骸は今もわかっていません。筑摩江は、地名では米原市入江の辺りを指しますが、平安時代には歌枕として「つくまえ」と読ませています。この歌の場合、地名の筑摩江というよりも琵琶湖の歌枕として三成は読み込んだのではないかと思います。つまり、琵琶湖のほとりで生まれ育った三成は、琵琶湖に焚かれたかがり火を見ながら、あるいは思い出しながら我が身の命運を歌にしたのかもしれません。 最後に3首目の歌です。

『残紅葉  散残る 紅葉そ殊にいと於しき 秋の名残は こればかりぞと』

この歌の短冊が佐和山の西麓にある龍潭寺に伝わっています。

伝石田三成和歌短冊(彦根城博物館委託)

伝石田三成和歌短冊(彦根城博物館委託)

短冊の一番下には「三成」と名前が記され、三成が詠んだものであるというのですが、いつの時期に詠まれたものかはわかっていません。
ある晩秋の日にはらはらと散る紅葉を見ながら、それでも枝に残る紅葉こそが秋の名残であると詠った三成の真意は、秀吉晩年の豊臣政権を憂い、自分こそは豊臣のために最後まで尽くすことをこの歌に詠みこんだのでしょうか。その心情をもってこの歌が三成の辞世の歌ではないかと龍潭寺の北川住職は解釈されます。
彦根の龍潭寺は、関ケ原合戦後、井伊直政が佐和山城に移封してきたときに遠江井伊谷(静岡県浜松市)にある井伊家菩提寺の龍潭寺が分かれて開山された寺院です。第2章の佐和山城の項でも書きましたが、龍潭寺の建つ位置は、佐和山城の東西を結ぶ主要道の西側の入り口にあたります。創建当時の寺は、その部材の多くを三成の佐和山城に拠りました。創建当時の山門は佐和山城の城門だと伝わり、果燃室と呼ばれる茶室(非公開)は解体した佐和山城の木材を使っていると伝わります。本堂へと続く廊下で使われている杉板戸は、佐和山麓のモチノキ谷にあった三成の屋敷で使用されていたもので、表面の極彩色で描かれた八重桜と裏面の芭蕉と葡萄の墨絵は、そのコントラストを際立たせています。

杉板戸の八重桜(杉板戸は表面のみ見ることができます)

杉板戸の八重桜(杉板戸は表面のみ見ることができます)

また、大玄関の天井には梵鐘が吊るされていて、彦根十景のひとつ「龍潭晩鐘」と称されるこの鐘こそが佐和山城の陣鐘だと伝わります。

陣鐘

陣鐘

さて龍潭寺といえば、松尾芭蕉の高弟・森川許六の襖絵でも有名です。

許六襖絵

許六襖絵

その許六の弟子・深山飛川によって編集された『彦陽十境集』という句集には許六の次のような句が掲載されています。「佐和峯紅葉」のお題に対し、許六が詠んだ句は

「あはれさや 粮にもうれし 木々の色」(あぁ、佐和山の紅葉はなんて素晴らしいのだ)

この句集は、和漢欠韻という俳句と漢詩を組み合わせたもので、許六は俳句に続き漢詩七言絶句を次のように詠いあげました。

和峯古郭甲東海 (佐和山にはこの辺りでは随一といわれた城があった)
九十年来秋暮風 (関ヶ原合戦から90年が過ぎ、秋風が吹く)
忠武義将何去往 (忠義の武将はどこへ行ってしまったのか)
重闕双闕徒紅葉 (重なり合う楼門のような素晴らしい紅葉もただ虚しいだけだ)

蕉門十哲であり、井伊家藩士でもあった森川許六。彼の祖父は関ヶ原合戦で東軍として戦ったという経緯を持っています。その許六にして「忠義武将」と言わしめた石田三成。
秋、紅葉の頃、三成を訪ねて佐和山に登ると、許六のような心持ちになるのかもしれません。そして、残る紅葉も散る紅葉も、それぞれに名残の秋を深め、さまざまな思いを去来させることでしょう。

佐和山の紅葉

佐和山の紅葉

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